僕の夢にはよく、身近な人が出てくる。母さんや姉さん、甥っ子や姪っ子、友達や先生(時には先生じゃなくその家族)、それから同僚。もちろん、まったく知らない人が出てくることだってある。例えば大好きなアイドル。それに、好きでもなんでもないけど、総統(大統領)が出てきたこともある。知り合いであろうとなかろうと、夢の中で、僕はその誰とも親しげだ。
おかしいんだけど、こんなにいろんな人を夢で見ておいて、父さんの夢を見たことはこれまでなかった。
ところが、父さんが亡くなるちょっと前からこの数ヶ月の間、ちょいちょい父さんが夢の中に現れるようになった。
僕の夢の映写室はひとつしかない。映画の新作が順番に上映されていくのと同じように、父さんはそこに何度も登場するようになった。
父さんは五月末の端午の節句(旧暦)に倒れ、意識が戻らないまま、七月に亡くなった。初めて父さんが僕の夢に現れたのは、六月のある遅い夜のことだった。
夢の中で、父さんは倒れる前みたいに車椅子に乗っていた。外国人ヘルパーさん(台湾には住み込みで老人の世話をする外国籍ヘルパーが多い)が抱えるようにして、父さんを車の後部座席に乗せた。どうやら家族で出かける準備をしているらしかった。父さんが窓ごしに手を振って、僕の名前を呼ぶ。ひどく強い口調で、不満をぶつける相手を探しているみたいだった。
パーキンソン病を発症してから、父さんは脳神経の障害のせいで日常の動作が不自由になっていた。そしてある時、転んで脊椎を痛めてしまい、それ以降は車椅子を使わなければ移動できない体になった。車で出かける時も自分の力ではどうにもならず、必ず誰かに抱きかかえられて乗った。それは、彼の晩年にとても見慣れた光景だった。
見慣れた光景ということはつまり、この夢は「新作」ではないということだ。
この夢は、過去の記憶を再放送しているだけなんだと、僕は、はっきり感じていた。
夢には新作と旧作がある、と言うと変に聞こえるだろうか? 夢というのは、どれも現実生活では起きたことがないストーリーであって、実体験と同じに感じたとしても、かなりアレンジが加えられているものだ。だから、新しいも古いもないんじゃないか?って。
でも僕には、夢に出てきた父さんが現在進行形の彼でなく、昏睡状態になる前の、昔のままの父さんだとはっきりわかっていた。
東京から台北へ戻り、「頭七(トウチー)(初七日)」から「滿七(マンチー)(四十九日)」の法要を行い、その後告別式を終えて納骨まで(日本とは順番が違う)、毎日のように家族で遺品整理やいろいろな手続きをしていたけど、父さんが夢に出てくることはなかった。
ひと通り後始末が済んで、日本へ帰ってきてから、ふいにまた、父さんの夢を見た。
この時の夢は、自分が感じる時間感覚から言って、再放送のものではなかった。これは確かに、父さんがこの世を去ってからの、今の現実世界と繋がっている夢だった。
夢の中で僕は、父さんにこんなことを訊いていた。「日本の政権交代についてどう思う?」
ちょうど民主党が勝った総選挙の翌日で、父さんは夢の中で意味深に「だから、同じ政党がずっと政権の座に居続けていられると思ったら大間違いだ」と言った。
やっと夢に出てきたと思ったら、こんな小難しい話だ。なんだか奇妙すぎないか。
父さんは定年まで国家安全局(情報機関)に勤めていた。政治や地理、歴史に強い関心があり、毎日たっぷり時間をかけて新聞を読み、ニュース番組を見ていた。ときどき僕が質問をすると、父さんはいつも(僕からしたら)へんてこりんな、人を喰ったような答えばかり返してきた。でも、もし型通りの答えだったら、僕も質問したくはならなかったろう。
最後にそんな質問をしたのはいつだったろう? 全然思い出せない。それに、父さんが新聞やニュース番組から興味を失くし始めたのはいつごろだったろう? それもあまり覚えていない。
外の世界は、彼にとって、時間による検閲を免れるように丸定規が切り取った円のようなものだった。症状が進むにつれ、円はその直径を小さくしていき、また音もなく虫食われ、気づくとぽっかり大きな穴があいていた。小さくなる円の中でなお生き続けようとする父さんは、言葉を徐々に失い、いつしか表情も消えていた。頭の中で考えたことと、実際に体を動かすことの間に、時差が現れ始めた。最後、彼が生息する円は、寝床と車椅子と食卓を結ぶだけの範囲に縮まり、円の外に追いやられたトイレは、ポータブルタイプとなって寝室にやってきた。
◇
三度目の夢は、つい数日前に見たばかりの夢だ。
今回、父さんはかつてない姿で登場した。小さくなって夢に出てきたのだ。まるでドラえもんのスモールライトで小さくされたみたいな、そんな小人になって。
パーキンソン病のせいで、父さんはときどき情緒不安定になり、カンシャクを起こしたり、子供のように駄々をこねたりすることがあった。夢の中の、小人の父さんもそうだった。でも小さくなっていたから、カンシャクの威力もかなり弱くなっていた。
僕ら家族は、まるで子供をあやすように、寝床からリビングのソファーへ、それからまた食卓へと、父さんが行きたがる場所へ動かし、またしばらくして寝床に戻した。夢の中で僕らは全然面倒と思わず、かえって、小さくなった父さんとそのカンシャクを微笑ましく思った。どうしてか知らないけど、今回の夢は『ハリーポッター』みたいにファンタジックなムードにあふれていた。
ま、実際に看病していたころの面倒を考えたら、夢の中でのそれは造作もなかった。父さんは自分の力で自分の体を動かすことができなかったから、ヘルパーさんか家族に一〇〇パーセント体を預けるわけで、現実の生活ではいつもおおごとになった。しかも散々苦労して行きたい場所へ移動させてあげたのに、横になった途端、気持ち悪いから別の場所がいい、と言い出すのだ。
できれば、父さんに訊いてみたい。「父さん、僕が見てる夢についてどう思う?」 きっとへんてこりんな答えが返ってくるだろう。
そういえば父さんは亡くなる一、二年前から、自分が見た夢のことを僕に話すことがたまにあった。
病室で何度も夢の話を聴いた。感染症や検査で入院した時、父さんはいつもより、よく夢を見るらしかった。
パーキンソン病のせいで脳神経は侵されていたが、認知症ではなかった。彼の頭はおおむねはっきりしていて、自分がやると決めたことはやらなければ気が済まない。だから、彼がしたいということを、冗談かなんかで誤魔化して、放ったらかしにするなんて許されなかった。だけどその後、病状がかなり悪化したころ、父さんは軽い幻覚を見るようになった。そのたびに僕は、父さんの話をノートに記録したいって思った。だって、僕なんかより父さんのほうが小説家に向いてるように思えたからだ。
ある日、父さんはミステリー・ホラー映画(みたいな夢)を語った。入院していた病院が火事になり、うちのヘルパーさんの手助けで逃げ出したのだという。最後の場面は病院の地下室で、飛行機を下りた後、手荷物が出てくるコンベアーみたいなやつの上を、たくさんの人が縛られたまま、ぐるぐると回っている。幸い、父さんは機転を利かせて脱出に成功し、自分以外の病人たちも助け出した。
僕がおもしろいと思ったのはストーリー展開というより、見舞いに来た家族に話すストーリーが、話すたびにどんどん新しいバージョンになっていくことだった。昨日よりワンシーン増えたり、僕に話した時よりキャラクターが増えていたり。もしかして、遠くから来た見舞い客ひとりひとりのために、特別バージョンを用意してくれていたのだろうか? なんて気が利く病人なんだ!
またある日、夢じゃないけど、夢みたいな話をしたことがあった。
父さんは窓の外の遠い山を指差して僕に言った。「あっちにあるのが猫空(マオコン)ロープウェイだな」
僕は窓の外を見ながら、冷静に答えた。「そんなわけないよ。ここは榮總(ロンゾン)軍人病院じゃないか」(ロープウェイは台北の南の山奥にあって、病院は台北の北の方にあるのだ)
「ないわけない。山の上のあそこだ、ロープウェイがあるじゃないか。お前、見えないのか?」
目を凝らして、わかった。山の上を続いていく鉄塔と鉄塔の間に高圧線があって、それがロープウェイに見えたんだろう。
何度か説明してみたけど、父さんはわかったようなわからないような顔で、やっぱり猫空ロープウェイだと思ってるみたいだった。
今これを読んでくれてるみんなも、きっと、僕の父さんが幻覚を見たのか、それとも冗談を言っていたのか、わからなくなってるんじゃないだろうか? だって父さんは、昔からこんなふうに、突拍子のないことばかり言う人なのだ。でも小説家の僕のほうが、父さんよりその症状がちょっとだけ深刻かもしれない。
◇
あの日、小人の父さんの夢を見た朝、僕はいつものように山手線の通勤電車に乗り、原宿駅に向かっていた。
山手線は毎朝とんでもなく混雑する。通勤客は自分の足の踏み場を確保するのが精一杯で、車内で固まったまま、姿勢を換えることすらできない。
父さんはこんなに混んだ電車、見たこともないはずだ。この車内を見たら何て思うだろう?
でも、小さくなった父さんは……今は骨壷の中に住む父さんは、こんな苦労をしなくていいはずだ。
それにもう二度と、病気の苦しみや、体が思うようにならない辛さを感じずにすむ。だから父さんはこんな自由に、夢の中までしょっちゅう遊びに来ることができるんだ。おまけに、飛行機に乗らなくったって、気が向けばふわっと東京までやってくる。父さんは、自分が得た権利を簡単に手放さない人だったから、今の境遇をフル活用しているのだ。
告別式を終え、父さんの火葬をした午後のことを思い出した。僕は姉さんたちと一緒に、火葬場の人が運んでくる遺骨を見ていた。そしてめいめいが箸を持ち、象徴的な意味合いで遺骨をひとかけら拾い、骨壷に入れた。
「ご遺骨を入れる時、お父様の名前を呼んであげてください。お父様の新しいおうちですからね!」
と、傍らのお坊さんが僕らに言った。
さっき僕らは、少し離れた場所から火葬前の父さんに向かって「父さん! 火が来るよ、早く逃げて!」って叫んだ(それが台湾の風習だから)。涙があふれた。火葬場の人がボタンを押し、棺はゆるゆると上へ持ち上がって、そして炉に入っていった。それから一時間と少し経っただけなのに、父さんの肉体はもうここに存在しない。残るは箸の先の骨だけだ。
象徴的な骨拾いを終えた僕たちは、火葬場の人が、残った父さんの骨と灰を丁寧に集め、骨壷に納めて蓋をするまでを黙って見ていた。
骨壷は想像以上に重たかった。布で包んだ骨壷を首からかけ、胸元に抱いた時も、やっぱりずしりとした重みを感じた。
きっとこれが、初めて父さんを胸に抱いた瞬間だったはずだ。僕の胸元で、まるで赤ちゃんのように抱きかかえられている。
時間は逆戻りしない。子である僕たちが、両親をこの手に抱くことなど、恐らくこの時しかありえないだろう。
三十年以上前、生まれたばかりの僕を初めて抱き上げた時、父さんはどんなことを思っただろう? 想像していたより重たかっただろうか? 僕はそれを訊いたことがなかった。
もし今度父さんが、東京にいる僕の夢の中に出てきたら、そうだ、訊いてみよう。
でも、へんてこりんな答えじゃなきゃ、訊いてあげないよ。
(翻訳/天野健太郎・聞文堂LLC)
●Fromエッセイ集『夢中見』